「売女日記〜お客と一緒に撮るポルノ」
の上映中止について

 

この度、関西 Queer Film Festivalで上映を予定していた
「売女日記〜お客と一緒に撮るポルノ」が、
事情により上映できなくなりました。
楽しみにして下さっていたお客様には、本当に申し訳ありません。

もし、すでに日本ミックスのチケットをご購入頂いたお客様で、
本作品の上映がなければ観るのを取り止めようかと思われる方がいらっしゃいましたら、
当日会場にて払い戻しを致します。
お越しいただく事になり申し訳ないのですが、何卒ご了承下さいませ。
なおその際にかかった旅費、交通費などはお支払いできません。


関西 Queer Film Festival 実行委員会

 

上映中止について、作者であるブブ・ド・ラ・マドレーヌさんからの説明の言葉です。
 
 
私は’93年より、自分がセックスワーカーであることをカムアウトし、セックスワーカーとしての経験を自分の作品の中でも表現してきました。それは個人的な表現の動機からであると同時に、ひとりのセックスワーカーの実態を通して、売買春やジェンダー、セクシュアリティの現場の問題を社会に伝えたいという欲望と責任感があったからです。
 写真やビデオやパフォーマンスなどの作品の中で自分自身の顔や体をさらしてきたのは、女ということにしろ、売春ということにしろ、いとも簡単に消費され同情または軽蔑され誤解されているということに対して、逆に自ら体をさらして抵抗するためでした。
 売買春やジェンダーやセクシュアリティをめぐる問題に関する意識や議論や対策について、この社会はまだその成熟の途上にあると思います。それは私の知る限りのセックスワーカーや女性やセクシュアルマイノリティたちが、まだまだ自分の生きたいようには生きることができていないという現状からそう思います。
 セックスワーカーとして、女として、私自身もまだまだ生きづらいこの社会の中で、たとえ作品の中のことだとしても「大丈夫だよ!」というメッセージを発し続ける事に対し、この数年間、何か腑におちない倦怠感を感じていました。一方では、生きづらいからこそ、この関西Queer Film Festivalのような機会に作品を通してメッセージを伝え続けることが必要だと思い、いったんはこの作品の映画祭への参加を承諾しました。
 しかしその後、別の場所で、売春を表現することについて根本的に考え直す機会があり、そこで「自分の売春を視覚的に公表すること」への違和感と、それに対するつらさと怖れを、はっきりと自覚するに至りました。
 つらさというのは、自分が自分の顔と体を使って「本当のこと」をさらすということのつらさです。怖れというのは、解釈によっては犯罪にもなり得る非合法な行為と存在〜映像に映っている店やお客を含めて〜をさらすということに対する、社会的なものです。
 そんなことはわかりきったことですし、もちろんそれらを引き受ける覚悟で作品を作ってきました。それらを「平気」だと受け止める「強さ」を獲得/表明することが必要だとも感じていました。でもその責任感に支えられている間に、自分自身を過度に消費し続けていたようです。また、不特定多数の観客に対する開かれた映像表現として「自身の売春」を扱うことを、ひとりの作家として引き受けるには、まだまだこの社会は手強いし、恐ろしい、ということも実感しています。この13年間くらい続けてきたこの事に私自身が「苦しい」と自覚するに至って初めて自分の状態に気付き、当面「売春の現場を視覚的に表現すること」は止めよう、と決心しました。
 裸やセックスや売春について、自分を使って表現していくということは、自分はこれでいいのだと思っていても、それが一旦一人歩きし出すと、世間の視線や解釈はそんなに甘くはなく、結局既存の裸やセックスや売春観に巻き込まれてしまいます。そうして逆に既存の価値観を補強するために使われる場合もしばしばあります。それは私の身を痛めるのみならず、私自身のもっと内部を痛めるということに気がつきました。それらを回避するためには、その既存の価値観を上回る周到な作戦と技術と情熱をもってしなければ、私のさらしたモノは無またはマイナスにさえなるのだと気付きました。
 ただ私自身は’93年以降、セックスワーカー及び女であることで「傷ついた」ことは無い、そして私の「闘志」は今後も衰えることは無いということをこの場を借りてお伝えしたいと思います。
 切り傷ではないものの、うち身、ねん挫、骨折、筋肉疲労の類いは後を断ちません。 
 それらを治療するためにしばし「売春の視覚表現」をお休みします。
 新たなる作戦をもってまたお目にかかれる日まで。

2006年7月23日
ブブ・ド・ラ・マドレーヌ